コンテンツ文化史への誘い

コンテンツ文化史学会会長・吉田正高のブログです。 

「江戸の鎮守公認運動と地域における鎮守認識」   (『民衆史研究』55号、1998年)

早稲田大学文学研究科の博士課程へ進学した後、最初の1年は、所属ゼミの運営を分担することになり、さらに生活費・研究費を捻出するために仕事を増やしたこともあって、まだ論文を投稿するに至りませんでした。翌年、博士2年となって、そろそろ論文を書いてもいいかな、という状況が作れたので、修士論文をベースに、早稲田大学とはご縁のある『民衆史研究』へ投稿させていただいたのが、掲題の処女論文となります。

※民衆史研究会の公式ブログ

http://d.hatena.ne.jp/minshushi/searchdiary?word=%2A%5B%CF%A2%CD%ED%C0%E8%5D

 

修士論文では、江戸にある大小の神社を、周辺の地理状況や地域社会とあわせて「鎮守」という単位で取り上げ、そこでおこる様々な事象を詳細に分析するというスタイルで執筆しました。

 

そこで、この最初の論文では、それらの大前提でもある「鎮守公認運動」についてまとめてみました。

 

江戸という都市は、近世を通じて大火や地震に見舞われ、また沿岸部の埋め立ても続き、周辺の村もじょじょに町場化し、さらに大名家や旗本、寺社の持つ広大な土地の名目変更もたびたび行われるなど、土地の意義や質が時間の経過とともに変遷するという特徴がありました。特に、大名屋敷の移動などにより、その広大な土地が細分化されて新たな町場が作られると、そこに移り住む人々が地域を守る「鎮守」を欲するようになり、地域に存在する神社を町内の「鎮守」として幕府に公認を求める運動に発展していきました。

 

本論文では、その具体的なシステムやメカニズムを、いくつかの具体例を用いて説明し、さらに地域に自前の鎮守がない江戸隣接村の地域史料から、地域の「鎮守」に対する意識を読み解いていきました。

 

例として用いたのは下記の神社になります。

・浅草福井町 銀杏八幡宮社

 現在は「銀杏岡八幡神社」として台東区浅草橋に鎮座

 http://www.tesshow.jp/taito/shrine_asakusabashi_icho.html

 

・本所松坂町 兼春稲荷

 現在は「松坂稲荷」として墨田区両国3丁目の本所松坂町公園内に鎮座

 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E6%89%80%E6%9D%BE%E5%9D%82%E7%94%BA%E5%85%AC%E5%9C%92

 赤穂浪士の討ち入りで有名な吉良邸跡地の一部です

 

・下渋谷村 下豊沢村 氷川社

 現在は「氷川神社」として渋谷区東2丁目に鎮座http://www.tesshow.jp/shibuya/shrine_higashi_hikawa.html

 

鎮守の存在が幕府に公に認められると、管理者の選定、社の普請、祭礼などが相次いで実施されることになります。また、地元に鎮守がない地域では、地域鎮守を欲する住民たちの意識が高まっていたようです。鎮守公認以降に展開する諸事象は、それぞれ大きなテーマですので、後に次々と自分の論文で取り上げることになっていきます。

 

最初の論文ということもあって、久々に読み返したら気合が空回りしていて、ちょっと恥ずかしいのですが、それなりの問題提起はできたのではないか、と感じております。

 

ちなみに、本論文を収録した『民衆史研究』55号は、現在品切れだそうですが(泣)、内容にご関心のある方は、図書館などでお読みいただけましたら幸いです。

 

「江戸の鎮守公認運動と地域における鎮守認識」

(『民衆史研究』55号、1998年)

http://ci.nii.ac.jp/naid/40003605155